絽刺しの歴史

絽刺しは中国三大刺繍の一つといわれて蘇州汕頭と共に盛んに作られた時代があったが、だんだん絽刺しの影が薄くなり現在では殆ど作られなくなった。

日本にいつごろ来たのか、日本人が日本の絽の布に刺すことを提案したのか、文献などもなく、わからない。が、天平時代から伝わっているといわれる。奈良東大寺建立の際、絽刺しで作られた仏像用の敷物が献納されて、その一部が東大寺に残っているらしい。江戸時代に入って京都の公家達の手すさびになったものが公家の間で「公家絽刺し」といわれて珍重された。また、大奥のお女中衆が時間をかけて作った素晴らしい作品が人気を集めて大流行したといわれている

その後、細々と伝わっていたものが明治になってから一般の婦人達の間で広まりブームとなった。日清、日露戦争の時には、傷病兵の慰問に絽刺しを持っていった人がいて、ベッド上でがま口などを刺す姿が見うけられたという。

明治中頃までは絽目を数えながら刺していく直線模様か、麻の葉、さや型、などの日本古来の模様を、これも絽目を数えながら刺していった。大正、昭和になってからは花や鳥など自由な図案を絽布に描き、ぼかしなどの手法を用いるなどはなやかなものも好まれるようになった。

芥川竜之介の「秋」(大正9年)という小説に絽刺しをしている場面が出てくる。